友好都市の紹介(横須賀市)
登録日:2024年5月13日
横須賀市/平成27年11月15日提携
提携の動機と目的
歴史的関わりのある富岡製糸場と横須賀製鉄所(造船所)とのつながりを縁として、横須賀製鉄所のくわ入れ式から150周年にあたる節目の年に、共通する歴史を貴重な遺産としてとらえ、永く後世に引き継ぎます。そして、両市の市民交流を活発に行い、観光や学術研究など、さまざまな分野で交流を深め、さらなる発展と繁栄を目指今後、幅広い分野に渡る交流を通じ、互いの理解と連携を深めることを目的に、友好都市提携を締結しました。
横須賀製鉄所(造船所)とは
1 近代横須賀の夜明け ~ペリー来航と小栗上野介
嘉永6(1853)年ペリーの来航により、横須賀は日本が近代社会への歩みを記す最初の地となりました。その後、江戸幕府は諸外国からの圧力をうけたため横浜などを開港しますが、それがきっかけとなり、自分達の力で日本を守る必要性を考えるようになりました。そのためには、海軍力を増強させ、軍艦を造り、近代的な造船所を建設する必要がありました。その計画を立てたのは、幕府の勘定奉行などを歴任した小栗上野介忠順でした。
2 フランスとの接近と横須賀製鉄所の建設決定
造船所の計画は、フランスの力を得ることにより現実化します。
当時幕府は、欧米の5カ国と通商条約を締結しており、小栗らは当初アメリカに造船所建設の協力要請をしました。しかし、当時のアメリカは国内で南北戦争が起きていたため、協力を拒まれました。イギリス、ロシア、オランダも、それぞれ国の事情があったため、技術協力を受ける国を探すのは難航していました。
そのような中、フランスは国内で製糸業を支えていた「カイコ」が伝染病にかかり、産業が壊滅状態となり、生糸の輸入と伝染病に強い「カイコ」を海外に求めていました。そのため、駐日フランス公使ロッシュが積極的に幕府へ接近を図ってきました。その時、幕府とフランスとの仲立ちをしたのが、栗本鋤雲とフランス人のカションという人物でした。栗本鋤雲は、小栗とは竹馬の友の仲であり、カションは、栗本が函館にいた時代に共に過ごした仲で親密な間柄でした。この小栗、ロッシュ、栗本、カションの4人で面談が行われ、その後1カ月もたたないうちに、造船所の設置場所として横須賀が選ばれることになったのです。
3 ヴェルニーと横須賀製鉄所のくわ入れ式
造船所建設の技術的な役割は、当時中国にいたヴェルニーに任せられました。来日したヴェルニーは、フランスのツーロン港に似た横須賀港を気に入り、造船台やドライドックなどの施設を建設する計画を立てましたが、技術者確保と工場で使用する機械類を購入するため一時的にフランスへ帰国しました。
ヴェルニーが一時帰国している間に、幕府はこの造船施設を「鉄を加工する場所」という意味で使われていた「製鉄所」という名称にした上で、慶応元(1865)年11月15日、横須賀製鉄所のくわ入れ式(起工式)を執り行いました。
その後、ヴェルニーは再来日し、工事が進められます。時代は江戸幕府から明治新政府へと変わりますが、工事はそのまま引き継がれます。明治4(1871)年に待望の第1号ドックが完成し、名称も横須賀製鉄所から横須賀造船所に変わります。この年の11月には、明治天皇も横須賀へ行幸して、横須賀造船所を訪問しました。
横須賀製鉄所と富岡製糸場
世界遺産に登録された群馬県にある富岡製糸場は1872(明治5)年に建てられましたが、これは横須賀製鉄所の建設にも関わったフランス人技術者バスティアンが設計したものといわれています。
富岡製糸場に現在も残されている建物の特徴である「木骨れんが造」(木材の骨組みにれんがを積み上げる工法)や、従来の日本にはなかった屋根の工法である「トラス工法」は、明治3(1870)年までに横須賀製鉄所内に建てられていた副首長のティボディエ官舎をはじめ、横須賀製鉄所内にあった建物の中に、その原型を見ることができます。
また、富岡へ製糸機械などを取り入れたフランス人のブリュナと、横須賀製鉄所の首長であったヴェルニーは大変に親しい関係であったこともわかっています。
横須賀市の概要
横須賀市は、人口406,787人(平成27年1月1日現在)、面積100.83平方キロメートル。、神奈川県南東部の三浦半島の中心部に位置し、東は東京湾、西は相模湾に面し、南は三浦市、北西から北にかけては葉山町、逗子市、横浜市に接している。市域は、東西に約15km、南北に約16km、面積は100.71km2 で東京都心から50km 圏内にある。
主要部の地形は、標高100mから200m内外の起伏の多い丘陵地及び山地からなり、広い平地の少ない地形となっている。
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